次々と襲い来る苦難を「笑顔創生」で乗り越える
加藤 清
会社法人7社、一般社団法人3社、社会福祉法人、NPO法人、
事業協同組合、医療法人、理事長・CEOとして活躍。
私は現在、藤和グループという住宅建設、不動産、介護福祉事業などを行う複合事業体(会社法人7社、一般社団法人2社、社会福祉法人 、NPO法人、事業協同組合)のCEOとして、「笑顔創生」を合言葉に埼玉県西部地域の発展と地元のみなさんの幸福のために尽力しています。かつては日高市議、埼玉県議会議員として行政面から地域の活性化を目指した時期もありましたが、今は民間人としてできることをやっています。
私が生まれたのは1959年で、埼玉県飯能市高山という西川村の本場で有り、山林経営の盛んな山間部で村木店を営む一家の長男として生を受けました。当時の飯能市は林業が盗んで、山持ちのほうが町の人よりも豊かな暮らしをしていました。そんなわが家でしたが、私が17歳の時、父が木材搬出中に事故に遭い、脊髄損傷による下半身不随の大怪我をしてしまいます。そのため東京の大学に进学するつもりでいた私は父を支えるため、地元の東京国際大学に入学することになりました。早く一家を支える存在にならなければと思った私は、大学在学中にアルパイトに明け疲れました。社会のさまざまな面を知り、独立したときの種とするためです。授業ノートのコピー販売、塾の講師、ちり紙交換などいろいろな仕事を経験しました。中には「夜逃げ屋」という映画になった様なグレーなアルパイト仕事もありました。会社を倒産させてしまった経営者一家を、債権者に気づかれないうちに最小限の家財道具と一緒に逃がすという仕事です。ここで私は、会社経営の厳しさを社会の裏側から学ぶことができました。
卒業後、父のやっていた材木店を引き継ごうと考えた私は、大手材木問屋や大手材木店で働き、ノウハウを身につけます。しかし中小零細でその業界で生きることが難しいと悟り、隣接業種である住宅建設の会社を立ち上げました。1984年、私が站5歳の時のことです。それ以降、事業を拡大しながら地元の青年団や青年全議所(JC)で仲間づくりをし、40歳の時には日高市議会議員に初当選を果たしました。市威を2期務め、48歳の時には埼玉県議会議員に当選し埼玉県の発展に寄与することになりました。
私が議員になろうと考えた理由は、際がい者となった父のことで行政と関係を持つうちに、「障がいを持つ人のために社会を変えようとするなら、議員にならなければダメだ」と思うようになったからです。議員になった私は、当時当たり前のように「障害者」と書かれていた表記を「障がい者」と改めさせました。
県会議員から市長を目指しましたが、 日高市長選挙で次点となり、政治の世界から距難を置くことにした私は、それから障がい者施設や老人福祉施設を次々と立ち上げ、地城福祉の貢献に尽力しました。現在は建设と不動産の仕事を弟(東京国際大学卒業)に渡り、私は福祉分野の仕事に力をいれています。現在では病院、クリニックのオーナーを始め、特別養護老人ホーム(2箇所)、介護付き有料老人ホーム(6箇所)、高齢者ディサービス(4箇所)、障がい者リハビリディ(3箇所)、子供たちの放課後ディ、介護ショップなどを開設しています。2023年
4月には生越町に特別養護老人ホーム100床を、飯能市に45床の介護付有料老人ホームをオープンする予定です。
東京国際大学同窓会「霞会」は長く法人会を持たない任意団体でしたが、私が副会長を務めた時に一般社団法人となりました。大学に対して50周年記念事業に対する5000万円の寄付を行うなど、大学の発展に柔軟に対応できる同窓会を構築し、「積小為大」の精神でチャレンジを続けています。「東京国際大にはすごい人がたくさんいる。この大学のOB・OGで本当に良かった」と言われるような霞会であってほしいと思います。
私事になりますが、昨年最愛の妻を亡くしました。59歳という早すぎる死でした。膵藏癌と診断されてからずっと治療と看病に付き添い、最期は自宅で看取りました。失感から私も体調を崩し、いっそ死んで家内のところに行こうかと本気で考えたこともありましたが、ふと人生最大の苦難に打ち勝ち、下半身不随を乗り越えて自動車の運転ができるようになり、87歳まで生きた父のことを思いました。父は事故に遭った時、医者から生きて1年、奇跡が起きて3年」と宣告されていたのです。
わが加藤家は飯能の山間地域で47代の歴史を持ちます。代々の祖先が生きる中では、私以上の苦離を経験した人がたくさんいたでしょう。今私が生きていて、娘や息子が元気でいられるのも、襲い来る苦難をはね除けたご先祖様のおかげです。ならば私も苦難などに負けていられません。そう思って家内の新盆を迎えました。
藤和グループの経営理念は「笑顔創生」です。自分自身が笑顔になることはもちろんですが、相手の方が笑顔になるにはどうしたら良いかを考えて行動することで、自分が、家族が、周囲が、会社が、地域が、社会が良くなります。そう思って「心構えを変えれば、行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば人生が変わる」この事を常に心して頑張っています。
私はかって藤和グループCEO挨拶として次のようなことを言いました。「人は笑顔になると脳からセロトニンと呼ばれる幸せホルモンが分泌され、幸福感や前向きな気持ちを感じることができます。「病は気から」という言葉もあるように、心の状態は体調にも影響します。笑うことで気分が明るくなれば、身体にも良い影響が生まれ、免疫力がアップし、ストレスが解消されます。だから常に笑顔でいることを意議すれば、毎日を元気に過ごすことができるのです。悲しい事や辛いことがあった時は、すぐには笑顔になれないかもしれません。そんな時はこの「笑顔創生」のフレーズを思い出し、どうしたら笑顔で過ごせるのかを考えてみましょう。そして小さなことからでも行動に移してみてください。をっと幸せになれると私は確信しています。」
今私はこの言葉を自分自身に向けて再発信しています。そして63歳の今を再発進のスタートラインとして、「世のため人のために自分ができること」をやっていこうと決心しています。霞会のみなさんにも、辛いことや苦しいことがたくさんあるでしよう。中には一時の私のように、もう死んでしまいたいと絶望に襲われる人もいるかもしれません。そんな時こそ、この「笑
顔創生」を思い出していただきたいと思います。東京国際大学の学生であった時のことを思い出すのもいいでしょう。きっと現状を打開するヒントが思い浮かぶと思います。